精一杯生きているだろうか
電車のドア横にある本の広告の中で、「どれだけ生きるかより、どう生きるか」が大切だと書かれていて、それがなぜか頭から離れません。
わたしは何となく、自分は平均寿命の80歳くらいまでは生きるだろうなあと思っていて、
それだったら年金をもらう65歳までは働いて、その後の生活の貯蓄をしなくてはならない、とざっくりとした人生計画を立てています。
イソップ童話の「アリとキリギリス」という話は、一見すると真面目にコツコツ働くことが大事だといういい話のように思いますが、これって単に、そういう国民、社員、労働者がたくさんいたほうが得する人にとっておいしい話なのでは?と思います。
わたしは65歳までは、アリとして労働の義務を果たすことをなんとなく受け入れているのです。
キリギリス的に、好きなことをして人生を過ごすのは、あとでしっぺ返しがくるよと言われると、そのしっぺ返しを恐れて、好きなことなど後回しにして、目の前の労働を毎日コツコツをこなすことが第一優先なのです。
それって、精一杯生きているのだろうか?とふと思うのです。
精一杯生きるって、義務を果たすことなのでしょうか?
そのために、喜びを後回しにしてるって、あんまり楽しくないなと思ってしまうのです。
私にも日々、ほんの少しの喜びはあるけれど、それよりも義務のほうが大きくて、直ぐに喜びのほうが埋もれてしまいます。
そして、人が喜んだり、休んだりすることを許さない人たちもいます。
そういう環境にいると、心を殺して、言われたことをやることが生きる目的になってしまいます。
わたしはそれはやだなあ~。
キリギリス的な生き方に憧れるのが、私が自分で仕事をしていきたいという根本にあります。なぜなら、キリギリス的な人のほうが、私には圧倒的に魅力的にうつるし、そいういう人のほうが自分も周りにも自由で優しい人が多いからです。
私自身、アリとして生きていることでいろんなガマンのカスが溜まって、アリだったはずなのにガマンの糞を転がしているフン転がしのような、奇妙な生き物になっているように感じるからです。
ここ数週間、遅くまで&朝早くから仕事の義務を果たすことに時間を使ってしまっていて、心がすさんできました。
ああもう何にもやりたくない。
今日は一日お休みです。予定もなんにもありません。義務から解放された一日を自分にプレゼントしてあげたいです。
一生懸命生きるって、自分を一生懸命幸せにしてあげる生き方なのかなあと思います。